<超訳>黄帝内経(上古天真論第一 その5)
こんにちは、渡辺です。
前回はふと思いつきで特別編をやりましたので、これが5回目です。
上古天真論もあと一回分ですかね。
今回は非常に短いのですが、一方でこの第一章で重要なことを言っている部分であると私は考えています。
本文よりも解説が何倍も長い回になってしまいましたが、是非皆さんも深読みしてもらえればと思います。
<超訳>
黄帝「先生、年を取っても子どもを産める人がいるのはどうしてですか?」
岐伯「生まれつき元気な人の中には高齢でも子供を産める人がいます。しかし、普通男性は64歳、女性は49歳になる前に、子供を作る能力がなくなります」
黄帝「養生とかをめっちゃ頑張ったら、100歳でも子どもをつくる事はできますか?」
岐伯「養生が正しくできている人なら、中々老いることはありません。その為、若い時と同じように子どもをつくる事が出来ます。
<解説と言う名の感想>
上古天真論全体に言える事ですが、基本的に子孫を残す能力が、生命力・元気の状態を示していると考えています。
子どもをつくれるように成長し、子どもがつくれなくなる事で老化が進んでいることを示しています。
今回の短いセンテンスの中で、黄帝は岐伯に2つの質問をしています。
さっと読むと気づかないかもしれませんが、それぞれの質問は前提が全く異なった質問だと思います。
一つ目の質問は、個人差に関して言っています。
これは私の個人的な見解でありますが、黄帝内経の筆者はこの前の部分で、男女の年齢による体の変化に関して、具体的な年齢を示していますが、そこには個人差があると言うことを暗に示しているのではないかと思います。
医学が人を扱う以上「例外」は必ず発生します。
読んでいる読者の中には、私は〇〇才になったのに、書かれている状態とは違う、だからこの本は嘘つきだと言う人も出てくるでしょう。
しかし、そもそも絶対的に誰しもに当てはまるものなど、人間は必ず死ぬくらいしかありません(黄帝内経の中で、不老長寿の存在が出てきちゃうので、実際は人間って不思議だね、くらいしか書けないかもしれませんが)
そんなわけで、そもそも例外や個人差がありますよと、前半の質問で岐伯が答えています。
この個人差に関して、黄帝内経の第一章であるこの上古天真論で述べているのは非常に重要なことだと思います。
この後、様々な話が出てきますが、「個人差」に代表されるような例外がある事を認めていることを最初に示していることは、黄帝内経を読む上で重要なことだと考えます。
実際に、現代医学では考えられない部分や、現代の治療に役立いてられない部分も当然ありますが、そうでない部分に関しても黄帝内経を鵜呑みにしてはいけないと言うことです。
黄帝内経は東洋医学に関する古典であれば、間違いなく偉大な書籍であると私は思いますが、それで十分ではないですし、じっくり考えるべき部分は読めば読むほど感じます。
まさに、今回この超訳を作る上でしっかり読み込んでいるおおかげか、そういった部分に良く気づかされます。
話はだいぶ脱線しましたが、この個人差の事は本当に重要な部分だと思うので、そこら辺を加味してこの先も読んでいくと
理解しやすくなるんじゃないかなぁと思って、長々書きました。
そして、後半の質問ですが、ここでは養生の重要性ですね。
個人差により、長い事若さを保っている人がいるけども、それでも大体50~60歳になると体は衰えて、老化すると先に言っているのに対し、養生はそういった個人差を越えて、100歳まで元気でいられると言っているわけです。
本当に面白いですね。
養生の方法は、既にいくつか出てきていますね。
原文を読めばもう少し具体的にも書いてあります。
そして何より、先に質問した個人差よりも、養生、つまりは個人の努力が大きく体の状態を変化させると読み取る事が出来る部分でもある訳です。
今回はかなり私の考えが含まれているので、気になった方は原文をあたりましょう。
<原文>
帝曰有其年已老而有子者何也。
岐伯曰此其天寿過度気脈常通而腎気有余也。
此雖有子男不過尽八八女不過尽七七而天地之精気皆竭矣。
帝曰夫道者年皆百数能有子乎。
岐伯曰夫道者能却老而全形身年雖寿能生子也。
<おまけ>(中国語直訳)
天皇は、同年代の老人に息子がいるようなことはないと言っていました。
Qieさんは寿命が延びすぎて、腎臓のプラーナが余っていると言っていました。
息子や娘がいるとはいえ、それ以上の息子や娘はいないし、七転び八起きもないし、天地の本質は尽きている。
皇帝は、道教の人は何百年も息子を産むことができると言っていました。
契保は、道家は長生きで子供を産むことができるが、年老いて満身になることができると言っていた。
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